僕がいまだに岐阜へ行く理由〜日本サッカーを作ってきた男との出会い〜

皆さんは、「日本のワールドカップ初出場の最大の功労者」と評価される人物をご存知だろうか?


それが今回お話する今西和男である。


そう、私が岐阜に行くきっかけになった人である。


今西 和男は、現役時代はDFを務めた元日本代表のサッカー選手であり、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、そして日本におけるゼネラルマネージャーの地位を確立させた人物。サッカー界では日本の元祖ゼネラルマネージャーとも称されるほどの人物である。


オバマ大統領の広島訪問のきっかけで・・・


前回の記事でも触れたが、1945年8月6日午前8時15分、今西さんが4歳の時に広島市へ原子爆弾が投下され被爆したが奇跡的に助かった。しかし、それが原因で左手足に今もケロイドが残っている。


そんな今西さんだが、実はサッカーを始めたのは高校に入ってからだという。

高校に進学し、柔道部へ入部するも、1958年高校2年生の時に仲間に誘われサッカー部へ入部したのが始まりだ。当時右足を強化するため、藁を巻いたゴールポストを蹴っていたらしい。(笑)デビュー戦となった広大付属戦では左フルバック(ディフェンダー)で出場、鬼武健二(後のJリーグチェアマン)をマークして勝利を収めた。同年、高校選手権に出場することができた。

その後、東京教育大学(現筑波大学)体育学部へ進学、蹴球部に入部すると1年生からレギュラーとして活躍した。


卒業後、東洋工業へ入社。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入り、フルバックとして活躍、1965年から創設された日本サッカーリーグ(JSL)の初年度から1968年までの不滅の四連覇に大きく貢献した。1966年には日本代表に選出されアジア競技大会(バンコク)出場。1967年に膝の靭帯を痛め、1969年に腰の怪我により引退した。その後は1971年までDF専門のコーチをしていた。


その後、一切サッカーから離れマツダでの社業に専念、広島マツダで車の販売業務や本社総務で福利厚生や社員独身寮の管理を行なっており、社業でも優秀な成績を収め同期の中でも早い出世街道を歩いていた。

1982年、要請され再びサッカー部に携わり、副部長・総監督に就任する。低迷が続くチームの浮上策として改革を行った。

1984年、マツダSC監督になり、後の日本代表監督であるハンス・オフトをコーチに招聘、現場はオフトが指揮し今西さんはゼネラルマネージャー(GM)業務を行う分業制でチーム運営を行った。


後にオフトは日本代表監督となるが、その招集には今西も関わっており、またオフトからオファーを受けるに当たり相談を受けている。


Jリーグ初期

1986年、プロ化に向けた話が始まり準備を進める中、親会社であるマツダが業務不振からJリーグ参入に消極的な姿勢を取っていた。そこでチーム名に企業名が入らないことを逆手に取り、広島県内の企業にチームへ出資して貰うために走り回った。1992年Jリーグ創設でサンフレッチェ広島が発足すると取締役強化部長兼・総監督に就任。


この間、現サンフレッチェ広島監督の森保一ら若手の育成、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしていた、現川崎フロンターレ監督の風間八宏をチームリーダーとして熱心に口説き入団させ、高木琢也の獲得などで、Jリーグ創設2年目のファーストステージを制覇した。


ノーマークチームの優勝は大変インパクトがあり、総監督として長年チーム作りに尽力した今西さんが「ゼネラルマネージャー」と称されTV、雑誌に大いに取り上げられた。サンフレッチェ優勝を伝えた1994年の写真週刊誌『FLASH』に、今西さんを「ゼネラルマネージャー」と紹介した記述が見られる。日本で「ゼネラルマネージャー」という言葉が定着したのはこの時からとされ、近年サッカー専門誌も今西を「日本におけるゼネラルマネージャーの元祖のような存在」「日本の元祖ゼネラルマネージャー」と評している。


日本サッカー協会では、1994年、新設された強化委員会の副委員長に就任して陣頭指揮にあたり、ユース年代の強化育成、指導者養成システムの拡充、五輪チーム、A代表のサポートなどに腕を振るった。


日本代表ワールドカップ初出場の功労者


1997年、フランスW杯アジア地区最終予選において、日本代表は途中から低調となった。そこで今西さんは加茂監督更迭および岡田武史ヘッドコーチの昇格を強硬に進言した。これが了承され、岡田監督の下、日本は初のワールドカップ本大会出場を決めた(ジョホールバルの歓喜)。このため今西さんは日本のワールドカップ初出場の最大の功労者、と評価されるのである。


強豪サンフレッチェ広島の基礎を作る

広島では、1996年ごろからJリーグバブルがはじけ、チームは経営不振となった。チーム存続のため、主力の減俸や高木琢也や森保一などの主力放出を断行し、他チームの戦力外選手を安く雇うなどをしながらも、若手を育て経営安定に努めた。また監督は選手育成型の外国人監督を必ず選び、次に繋げるため日本人コーチを加える編成を作ることをモットーとした。


その結果、現在のようにユースあがりの若手が活躍するチームへと成長し、広島で育った

森保監督が指揮をとり、2012・2013年のJリーグ2連覇、昨年の優勝など、Jリーグの強豪チームとしての地位が確立された。(森保監督が2連覇の時に今西さんへの感謝を挨拶で伝えた。)


また、Jリーグ新規参入クラブとして活動しだした、大分トリニータや愛媛FCの創設にアドバイザーとして参加し、自身の持つノウハウを伝授した。


そしてFC岐阜へ

2005年、当時東海2部にいたFC岐阜の顧問に就任し、アドバイザーとして翌年東海1部・翌々年JFL昇格を影から支えた。2007年2月1日からはFC岐阜のゼネラルマネージャーに就任、経営の改善努力などが実り、同年J2参入にこぎつけた。昇格後は社長も兼務、Jリーグ昇格前の負債を解消するため奔走した。2010年、前回紹介した服部さんにGM職を受け渡し、今西さんは社業に専念することになった。


そんな時に、(2010年)僕はFC岐阜のフロントスタッフとして岐阜へ行くことになった。


今西さんがアドバイザーとしてFC岐阜に参加した時、すでに経営はまともに運営されておらず、今西さんは経営安定化に尽力した。しかしなかなか好転せず、Jリーグクラブライセンス制度導入を前に資金不足に陥る可能性が高くなったことから、2012年JリーグからFC岐阜は「予算管理団体」に指定される。これに対し、岐阜の筆頭株主である岐阜県知事 や岐阜市長 から今西さんの経営責任を問われる状況にまで発展し、同年8月末、資金不足解消のめどがたち次年度もクラブ存続が可能となったこともあり、服部GMとともに経営責任を取る形で辞任した。


僕は、この今西さん・服部さんを尊敬し、お声掛け頂いた事がきっかけでFC岐阜に参加したので、半年後の2013年1月契約満了を迎え、沖縄に帰ることにした。


それでもまだ岐阜との関係は続く。






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